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日航ジャンボ墜落事故から23年

日航機墜落事故123便 羽田発18時大阪行き
1985年8月12日
520人の尊い命が奪われた。

あれから23年、私もテレビに張り付けになったことを思い出す。

㈱商船三井の社内報(うなばら)平成五年九月号に掲載された相浦元社長の手記

河口神戸支店長の遺書

昭和六十年八月十二日、羽田発十八時大阪行きの日本航空一二三便が
群馬県御巣鷹山の急斜面に墜落し、多数の犠牲者が出ました。
発表された乗客名簿の中に、その日、東京での定例の部長会議に出席していた
河口神戸支店長の名前がありました。
何かの問違いであってほしい、
どうか生存者の中に含まれていてほしいとの私たちの願いもむなしく、
五日後の十七日の夕方、遺体が確認されました。
そのとき、警察から遺品として渡された手帳の中に、
家族への思いを走り書きしたメモが見つかったのです

 「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けてください 
 パパは本当に残念だ きっと助かるまい 
 原因はわからない  
 今五分たった もう飛行機には乗りたくない 
 どうか神様助けてください 
 きのうみんなと食事したのが最後とは 
 何か機内で爆発したような形で煙が出て降下しだした 
 どこえどうなるのか
 津慶 しっかりた(の)んだぞ
 ママこんなことになるとは残念だ さようなら
 子どもたちのことを よろしくたのむ
 今六時半だ 飛行機は回りながら 急速に降下中だ 
 本当に今までは幸せな人生だったと 感謝している」


異常な事態が起きてから、墜落までの短い時問に、しかも混乱した状況の中で、
家族への思いをつづったこの遺書は、読む人の心を揺り動かし、
日本全国の人々、いや世界の人々に深い感動を与えました。
                        相浦記

私は、こんな状況下で家族のことを考え、そして守れるだろうか?

『日航ジャンボ機墜落 20年後の遺書の宛先』(written by 石川雅彦氏)一部分だけ、抜粋

 ボタンという「遺書」を残した赤ちゃんもいた。
 吉田富美子さん(79)のひとり息子、哲雄さん(当時35歳)一家3人は、
 初孫を両親に見せるため、日航123便を予約した。

 孫の有紗ちゃんはその年の5月11日生まれ。
 航空会社間の取り決めで乳児は生後3ヶ月経たないと乗れない。
 8月12日に予約し、そして、その日が一家3人の命日になった。

 富美子さんは事故当日の昼、東京の息子宅に電話をかけている。
 電話口で、どうしたことか、有紗ちゃんが大声でぐずっている。
 「なんでそんなに泣いているの」
 「服を着替えるのをいやがってるんや。おふくろが作ってくれた水玉のワンピース、
 よく似合うよ。着せて帰るからな」
 
 親子3人のなかで、水玉のワンピース姿の有紗ちゃんだけが、
 比較的整った遺体で見つかった。
 最後まで出てこなかった右手は、2週間後に出てきた。
 
 富美子さんは話す。
 「10センチくらいのちっちゃな右手の前腕でね。
 手のひらがぎゅっと握りしめられているのね。
 何だろうと思ったら、白いボタン。お母さんの服のよ。最後の瞬間に
 3ヶ月の子が、渾身の力でボタンを引きちぎってくれた。
 字がかけないあの子の、精いっぱいのことばなの」


子供を産み、育てた方なら解りますよね。
生後3ヶ月の赤ちゃんが、どれだけの赤ちゃんなのか。
大概は、まだ寝返りも打てず、自分の欲求もうまく伝えられない、小さな赤ちゃん。
そんな赤ちゃんが、最後に、恐怖からか、ママのボタンを引きちぎる程の力を出した。
言葉にならないけど、「ママ」って心の中で叫んだんですよね。

いつ、どんな別れが来ても、後悔しないように、生きて行こうと考えを新たにしました。

23年目の夏 ご冥福をお祈りします。 合掌









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